萌えゴリラがレミングのように

嫌オタク流」を読みました。
オタクがどうこうといった、思春期の心情を仰々しい言葉で飾った物言いには興味ないけど、高橋ヨシキ中原昌也の切株派コンビに期待し購入しました。


いやー期待通り。中原昌也ってスゴイなあ。もう大笑いですよ。
「萌えゴリラ」「独眼流」「心霊現象」と、よくもまあ唐突に言い出せるもんですよ。
成り行き上仕方なくマトモな発言もしますけど、基本的には脱線しかしないのはさすがだな。
あと、やっぱダジャレは言うんですね。「ダジャレ刑事」だけのことはある。
ザッと他所の感想を見渡してみると、中原許せん!てな感想をよく見ます。
気持ちは分からんでもない。オレも中原文章を初めて読んだ時はええっと思いましたし。
でも、この人の言うことをあまり真に受けるのもねえ。
「今から面白いこと言いますよ、ほら面白いでしょ」といったスタンスを憎んでいる(であろう)人だから、発言がシャレっぽく聞こえないかも知れないが。


ヨシキ所長はかなり普通に話してましたね。横にスゴイのがいるせいかもしれないけど。
所長の発言は、オレが普段思っていることとかなり重なります。
特に、なんでアメリカで認められたとかの権威に寄り添いたがるのか、「このアニメは俺にとって最高だ!」じゃイカンのか。市場規模がどうしたとかのオヤジトークをしてるお前はなにもんだ?というくだりはホントに共感します。
こういう感覚はオタク界隈に限らずあることですが、ホントに下らない。自分が何々を好きだってことと、世間での、主に経済的な評価なんてカンケーないよ。
そりゃオレだって好きなものが世間で評価されりゃ嬉しいと思うことはあるし、市場規模だって話のネタにすることはある。でも、大声で叫ぶようなような話だとは思わんね。


あと切株派の2人の発言に共通して感じたこともあります。
オタクつうのは、もっと創作に対して意識的なものだと思ってた。送り手にまわるにしろ受け手にまわるにしろ、自分の趣味に対してはある種の積極性を持ってるもんだと思ってた。
しかし、実際には既製品をベタな感性で受け止め、誰か声の大きい奴(評論家とか)の言葉をそのまま鵜呑みにしてるだけ。そのくせに態度だけはやたらでかい。
なんか自分は特別な存在だと思っているようだが、セカチューで泣いてる連中と変わりゃしねーよ!
...てな感じのことです。実際にそうかは分からんが、2人の目にはそう映るのでしょう。
一方で積極性が感じられる場合、例えば聴き手である海猫沢めろんが、エロ小説を自作してそれで抜いてたり、アニメの色んな台詞を抜き出し、切り張りして好きな台詞言わせたりしてるとかに対しては素晴らしいと言うわけです。
そこには創意工夫があるじゃないかといった感じで。でもこれはちょっと厳しいなと思うのです。
切株派の2人が送り手だからそう思うんでしょうが、そのレベルを要求されると大方の人間はキツイ。ならデカイ口利くなってことでしょうけど。
それに、年齢的な問題もあるだろうし。20前後だったら、そういうこと言いたくなる時期ですよ。40ぐらいでそれだったらマズイけど。


まあ、誰もが読むべき良書とは思わない。制作に時間かけてないっぽいし。でも面白い本でした。
危うく本の結論が「リサ・ライオンで抜け!」になりそうだったというのも言っておこう。


それと、この手の話になると出てくる「サブカル」って言葉。アレの意味が分からん。オタクと何が違うのやら。
スカしてる奴ってこと?でもどう見てもオタクな人々の中にも、鼻持ちならないスノッブっているし。
例えば押井守ファンとか。